勝覚寺について

♦ 勝覚寺の歴史 勝覚寺の歴史 大内町史(上)(下)(資料集)「大内町」を読み解く

 ○寺のはじまり

仏教は、紀元前5世紀にインドのブッダ・ゴータマによって創始され、紀元6世紀に日本に伝わり、7世紀には白鳥廃寺や石井廃寺などの寺が営まれた。9世紀には天台宗と真言宗とが伝教大師最澄と弘法大師空海によって開かれている

 

 親鸞聖人が開いた浄土真宗は下野(しもつけ)高田の専修寺を中心とする派と京都東山大谷の本願寺派・仏光寺・三門徒などと分かれ、二世紀を経過した。血脈本願寺八代目蓮如が法主となった長禄元年(1457)は土一揆と飢饉が相次ぎ、その上、本願寺の勢力は仏光寺に比べてまことに微々たるものであった。当時の本願寺の衰退ぶりをみて、「名帳絵系図」で隆盛を極める仏光寺へかわる寺院も相当あったと記録されている。

 このようなとき、四三歳で法主の地位に着いた蓮如は、専修寺や仏光寺の教えは親鸞の教えと違う間違ったもので、自分こそ血脈であり正当な教義を行えるという自信を強め、大衆に対するエネルギッシュな布教を行った。

 その教えは「御文」の作成・付与と講の組織化であった。「御文」は文字も読めない人々にも読んで聞かせればすぐ分かる平易な文章で懇切丁寧に書かれている。そしてそれが門徒たちによって書きうつされ、次から次へと口誦されていった。また蓮如は、本願寺(本山)---末寺---道場 という中央から地方に至る組織系統を確立した。また、布教も大衆というよりも村の支配的身分の人たちをとりこにし、封建的身分制にしばられた村落社会におもみをもたせ、それを通して民衆一般に浸透させたのである。

 さて、讃岐の国の一向宗伝播については、未研究の域を出ないが、蓮如に帰依した仏光寺一四世経豪(興正寺一世)が仏光寺門徒を率いてその教団に加わったところから考えを起こさねばならない。氷上常光寺・阿波郡里安楽寺はもともと天台宗寺院であり、途中から一向宗仏光寺派に移ったとある(寺伝)。また、現存する二・三の寺院の縁起から、その当時、仏光寺寺院が讃岐の国にあったことが推察される。興正寺二世蓮秀は本願寺一〇世証如をたすけ、本願寺教団確立に献身的努力をし、門下の端坊や東坊を西国に巡化させ、「御文」や「光明本」等を下付して、独自の布教活動を行い、中国・四国・九州地方に興正寺門徒を加入させ、また、従来の仏光寺派寺院の多くを傘下に収めた。本願寺教団の確立は蓮如の畿内・北陸を中心に、その上に仏光寺一四世教豪(興正寺一世)さらに興正寺二世蓮秀の四国・中国・九州に広がった仏光寺派と新興興正寺派の門徒の力をかりて成り立ったのである。さて、讃岐国への一向宗伝播は非常に古く仏光寺を中心に行われ、それが阿波三好氏さらに十河氏の関係で、

      安楽寺系 興正寺・・・安楽寺・・・安養寺・・・末寺  興正寺・・・安楽寺・・・東光寺・・・末寺

  常光寺系 興正寺・・・常光寺・・・末寺

 と構築されたとみられる。本願寺直末は数か寺あったとしても、ほとんどがこのラインに乗ったとみるべきだ。安楽寺をもって、讃岐一向宗の創設というより、興正寺の教線拡大とみることが、本願寺・興正寺二百年の確執の歴史からも自然に思えるし、各寺の創建者の生没からみてもいえるのではないか。また、教法寺が生駒藩前後から強力な寺院として登場し、大和の国の武士が当地へやってきて創建したと伝えられ、どうも仏光寺派寺院であったらしいということも、これからの研究課題である。安楽寺が三好氏や蜂須賀氏という国守とつながっている事実も一向宗伝播の研究に欠かせないことである。

 勝覚寺(正覚寺)

 讃岐国名勝図会には、開基は明暦三年(1657)沙門正哲の草創とあるが、寺伝によると、天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。古い安楽寺末寺帖にも小砂正覚寺とあり、追加の記事にも三本松正覚寺とあり、創建も寺伝による天正年間が正確といえる。安楽寺末寺となったのは、阿波三好氏の関係であろうと思われる。その後正覚寺と号した。

 九代目願故のときの貞亨元年(1684)三本松村に移り、海暁山勝覚寺となったとされ、港町三本松の発展とともにその勢力をひろめ、寺院としての体裁を整えた。

 

 さて、旧寺院と同じく一向宗も組織され、

   本山・・・中本山・・・末寺・・・末寺

 興正寺・本願寺の二百年にわたる確執は別として、興正寺も末寺の確立を行った。延享三年(1746)二月所司代へ提出した記録では興正寺末寺二000余か寺で、本願寺全末寺八三五九寺のうちの四分の一を占め、興正寺持分となっている。ちなみに、

   讃岐  七七   阿波  四一   伊予  三   安芸   三二八   備後   四

 とある。讃岐の国は前述の如く、安楽寺系、東光寺系、常光寺系となっている。大内郡・寒川郡では安楽寺末安養寺末一九寺の中に馬宿西光寺・引田善覚寺・三本松勝覚寺が含まれている。

 江戸時代中期ごろから末寺が中本寺から離末し、本山直末となる例が多く、先に馬宿西光寺・引田善覚寺が離末し、宝暦三年十一月になって、津田光西寺・富田徳勝寺・三本松勝覚寺が多額の金子や贈り物をして安楽寺・安養寺から離末し、本山直末となった。

 第二十世住職赤沢融海は幕末から明治期の名僧として詩画歌俳にも秀でていた。また、妙好人谷口庄松は当寺の門徒であった。

昭和初期に刊行された「三本松町巡遊記」によると、

 勝覚寺は駅の東方四町の所にあり、海暁山と号す真宗興正派なり。三代物語に高松安養寺に隷すとあり、本尊阿弥陀如来は圓光大師の作と申し伝え、讃岐名勝図会には明暦年中沙門正哲の草創とあれど、寺伝によれば天正四年阿波三好氏落城の節、赤沢信濃守戦死し、其の二子父の菩提を弔はんと大坂天満興正寺に証秀上人に就いて得度し、兄は正本と称し、丹生郷小砂に来り一宇を建立して小砂坊勝覚寺と号し、(弟は阿波大寺恵光寺を創立す)九代願故の時、貞享元年三本松に移転し、海暁山の号を授けられたり。現在の建物は本堂、奥書院、庫裏、座敷、経蔵、鐘楼、東大門、南北門、衆徒坊等結構善美を尽くし、近郷の大刹にして檀家千戸を数え、夏日鐘楼に蝙蝠の密集する事百余年絶えざる奇観を有する。境内に老松あり、甘露松とて名高し。宝物の主なるものは千手観音木像は(行基菩薩作)懐紙横物一軸後奈良天皇真筆色紙鷹画(三葉徽宗皇帝筆)西王母(宗陸修筆)蘆鷹画(狩野元信筆)等なり。

 とある

(第二〇世融海上人と讃岐国名勝図会に描かれた勝覚寺)

○勝覚寺の伽藍の様子

 本堂

 棟札によれば享保十一(1726)五月建立の江戸時代中期の典型的な真宗本堂であり、内陣に比して外回りは簡素であるが、向拝・手挟みなどの彫刻は優れており、建具もよく残されている。大工は備前国邑久郡鹿忍村大倉作右衛門久森である

 経蔵

 寺記によると、享保五年(1720)建立、外部全面塗り込めの宝形造りの本格的三間の経蔵で、工作技術も巧みである。堂前に「毘盧蔵」の扁額が掲げられ、内部に同時代作の八角輪蔵が置かれて、その中に鉄眼和上訳の黄檗山版の一切経が納められている。この八角輪蔵は六千五百余巻の一切経を蔵する回転式輪蔵で、五世紀初頭に中国の南梁の傳大氏・名は傳翕(ふきゅう)(497-569)傳大士とも双林大士とも東陽大士とも呼ばれる人が考案した回転式の書架で、字の読めないものでも、この輪蔵の扉を押して回すだけで読経と同じ功徳があるとされているものである。後補部分も少なく江戸時代経蔵の好例である。

     

 鐘楼

 均整のとれた四本柱鐘台、材質、工作ともに優秀であり、元禄元年(1688)建立、宝暦六年(1756)再建のものであったが、平成18年に老朽化のため新築再建された。鐘は昭和二十二年に鋳造されたもの。

 表門

 東門とも呼ばれ、寺伝によれば、安永三年(1774)備前国西大寺観音院の門を移築した袖塀付きの切妻造り一間棟門であり、段違いの屋根が特異であり、巻斗の浮き彫り、棟門冠木・飛貫間の牡丹唐獅子などに凝った彫刻が施されている。

 北門

 禅宗様式の通し柱の名残を示し、木太く見ごたえのする四脚門であり、十八世紀中期の作とされる。

○真宗興正派 海暁山海暁閣勝覚寺 略年譜

  〒769-2601 香川県東かがわ市三本松426

西  暦  和   暦  年            譜

1224 元仁 元年 親鸞聖人、浄土真宗を開く。

1576 天正 4年 阿波三好氏落城に伴い、板西城主赤沢信濃守戦死 一子正本大坂興正寺で得度

1582 天正10年 丹生村小砂に、正本法師が小砂坊を開く

1684 貞享 元年 九代願故、小砂村から三本松村に移転し、海暁山を冠し勝覚寺と称する

1720 亨保 5年 鉄眼禅師・黄檗山版一切経を納めた経堂建立

1726 享保11年 本堂が建立された

1757 寶暦 7年 安楽寺末から離末し、興正寺直末となる

1774 安政 3年 岡山西大寺観音院の山門を移築し、建立

1799 寛政11年 谷口庄松 丹生村小砂にうまれる

1863 文久 3年 異国船到来につき防御厳命 大内郡郷士ら勝覚寺を詰所として待機

1871 明治 4年 谷口庄松没 享年73

1872 明治 5年 勝覚寺に第四区小学校設置

1876 明治 9年 興正寺 本願寺から別派独立に融海上人が献身努力

1881 明治14年 「讃岐庄松ありのまま記」初版本発行印刷

1883 明治16年 庄松同行13回忌法要の際、小砂説教所に墓碑建立

1887 明治20年 庄松同行17回忌 華岡大仙版 ありのままの記 刊行

1890 明治23年 庄松同行20回忌 高須輝太郎版 ありのままの記 刊行

1893 明治26年 庄松同行23回忌 松田善六版 ありのままの記 刊行

1895 明治28年 二〇世融海没 死後中僧正を贈られる 華岡大仙没

1900 明治33年 庄松同行30回忌

1920 大正 9年 庄松同行50回忌法要の際、小砂説教所の墓碑に玉垣等建立

1969 昭和44年 宏平創版刊 ありのままの記刊行 十河信善・安本一正読解版

1970 昭和45年 妙好人庄松の百回忌法要を営み、五万人の参列者が訪れた

1928 昭和52年 小砂説教所版「庄松ありのままの記」冊子発行

1985 昭和60年 二五世明海、法灯を継承 勝覚寺建立四百年慶讃法要・庄松同行百二十回忌法要

1998 平成10年 草薙金四朗氏「庄松同行ありのまゝ記」正読略解 発行 小砂説教所版冊子発行

2006 平成18年 鐘楼を新築再建する。

2010 平成22年 庄松同行140回忌

2020 平成32年 庄松同行150回忌

○勝覚寺歴代住職 平成21(2009)年8月現在

勝覚寺

01-正本 02-正意 03-亮本 04-亮主 05-玄智 06-亮範

07-圭寶 08-正了 09-願故 10-願栄 11-諦等 12-亮瑞

13-梅昌 14-霊忠 15-亮辯 16-致浄 17-霊浄 18-亮潤

19-念海 20-融海 21-純性 22-静海 23-廣海 24-春海

25-明海 - - - - -

  (東かがわ市三本松